2016 3/18 偏見の話
今日の英語学校の授業では、先生からカナダの移民についてとそれにまつわる偏見について学びました。
キッカケはアクセントから。教科書のなかで自分のアクセントがアイデンティティの一部であると気づくという話があり、その話から先生は「日本にいるときに、日本語のアクセントが違う人がいたら、あなたはその人にそれについて聞きますか?」という話題へ。
僕は「まずは相手が自分から出身地やら生い立ちを説明するのを待って、言わなかったら、自分から出身地を聞いてみる」と言いました。
「それは失礼なこと?」と聞かれ、
「出身地を聞くのは日本ではそれほど失礼なことじゃないと思います」
他の二人の生徒もまあそうですね的な感じ。
「カナダでは出身地を聞くのは失礼になることがあるよ」とのこと。
それはカナダには移民が多く、カナダ生まれカナダ育ちで、英語のアクセントもまわりと何にも変わらないのに、アジア系の場合だとしょっちゅう出身地を聞かれ、カナダのドコドコだと言っても、「じゃあお前の両親はどこの出身だ」とだいたい追求してくるらしいです。確かに毎回外国出身だという前提で出身地を聞かれ、相手が満足する答えを言うのは面倒ですね。
だけど偏見や差別抜きで、その人への興味から聞きたい場合もあります。そんな時の対処法を先生が教えてくれたのですが、それが秀逸でした。
先生は「出身はどこですか?」ではなく「この街の出身地ですか?」と聞くようにしているらしいです。そうすれば、「いえいえ、数年前にドコドコからここにきて何年になります」と話がはずむらしいです。「まずは地元の人という目でみることが大切」とのことでした。
偏見の目をもって自分のルーツをしつこく聞かれると大変ですが、自分が相手のことを純粋に知りたいときには非常に便利なことですね。
「出身はどこですか?」にはすでに「ココ(この国、この街)ではない」という決めつけが入っていることがあるのかもしれません。しかし、「この街の出身ですか?」にはそれはありません。とにかく大事なのは「地元の人として見る」こと。相手を仲間として見る姿勢がとても感じられます。これはいろんなことに応用すべき考えだと思いました。
話はもどって、アクセントの話から「日本人に自分が英語を喋る姿は見せたくない」という話を僕がしました。理由を聞かれ、「みんながアクセントや文法の間違いを探している気がするのと、単純に恥ずかしいから」と答えました。今自分で説明してみて改めて、英語を話すということが本当に自分にとって特別なことなのだと実感しましたね。
こんなことを言ったってしょうがないとはわかっていますが、「みんなが学校の中で英語を話せるようになって、英語が当たり前のものになっていればこんなつまらい問題はないのに」とつい思ってしまいます。
これは英語学校から借りた小説です。英語学習の中級者向けらしいです。わからないこともたくさんありますが、気楽に読めています。
When Summer Comes Level 4 (Cambridge English Readers)
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